- 園長のコラム
相手の気持ちを考える。例えば画用紙を踏まない。
私が短大卒業後、最初に勤めた園の就職の面接を受けた時のことです。(くじらに出会うずっと前のお話)
『あなたは先生になって大切にしたいことは何ですか?』のような質問がありました。
その時に答えた回答は『思いやりの心をもったこどもたちを育てたい』でした。
続けて『思いやりというのはどういうことを指しますか?これはとても難しいことだと思いますよ』こんな風に返されました。その後のやり取りは覚えていませんが、当時19歳で拙い言葉をつむいで回答をしたと思います。
時を経て、就職してすぐに先生と呼ばれて偉そうだったことがたくさんありました。
先生と呼ばれるから知識も実績もそんなにないのに背伸びすることもありました。
今ではたくさんの経験をしてきたことで少しですが、子どもたちに、保護者に、教えるというような姿勢をとるのではなく、私も子どもたちと保護者と『共に』生きる仲間の1人として、お互いに置かれている立場や状況を考えながら教え・教わりながら生きていくことが大切であると、『思いやりは難しい』の意味が少し分かったような気がします。
そんなまだまだ模索中の『思いやり』を子どもたち目線に合わせて一言で表すと、『思いやり=相手の気持ちを考える』ことが大切だという事例が最近2つありました。
踏まれた人の気持ちを考える
絵画活動で床の上に画用紙を置いていました。
途中、筆に絵の具をつけるために立ち歩くのですが、その際に多くの子どもたちが友達の画用紙を踏んでも気にしませんでした。
また、筆についた絵の具が友達の画用紙の上に落ちて汚してしまっても気にしません。でも自分の席に戻ってきた時に汚れた画用紙を見た子は「絵の具落としたの誰だろう…」と悲しい気持ちになっていました。
誰もこれに気づきません。
担任の保育士はその場にいた全員に対して、「画用紙踏まれて嬉しい?」と自分に置き換えて考えられるよう話をしました。
見えていても気づかない(あるいは無関心)
別の日、屋上園庭で遊んだ後、保育室で過ごしていると帽子が落ちていました。
目に入っているのに気がつかない子もいます。
(まだ自分のことしか見えず周りが見えていないのではないかと思います)
担任の保育士は誰が気がついてくれるか、あえて見守っていたらWちゃんという女の子が拾って、名前を見てそっと持ち主のロッカーに、そっとしまってあげました。
担任はやっとそこで、あえて全体に聞こえるように声を発しました。
「やっぱり気づいてくれるのはWちゃんだったね、ありがとう。」
これによって帽子がロッカーから少し飛び出ているので直してあげるといった『褒められたいから善い行いをする』子も出てきましたが、『そうではない』ことも伝えました。
褒められたいから善い行いをするのはもう少し幼い時期では大切ですが、5歳児ではもっと本質を考えることが必要ではないでしょうか。
この場合の本質は、落ちたままだと踏まれたり、無くしたりしたら、落とした子が困るだろうなって『相手の気持ちを考えて』拾って戻してあげること。短くすると5歳児に考えて欲しい『思いやる』ことだと私は考えました。
幼児期の子どもたちは、このような積み重ねを通して少しずつ自分中心から、相手のことを考えられるようになっていきます。
これから大きくなっていく中で、他責思考ではなく、自責思考=『自分を信じて』生きられる人になって欲しいと願っています。